【vol.07】東日本大震災を乗り越えて
仙台を拠点とする土木・建築事業を中心に、全国での太陽光発電事業や沖縄でのリゾート開発事業、ミャンマーでのアパートメント事業など、幅広いエリアで多角的に事業展開を行う株式会社深松組。東日本大震災発生時は、まっさきに被災エリアに駆け付けてがれき撤去を行うなど、復旧・復興の第一線に立ち続けてきました。現在は、津波によって甚大な被害を受けた若林区・藤塚にて新たな観光拠点「アクアイグニス仙台(仮称)」の建設・運営事業にも取り組まれています。
震災からの10年、様々な変革を起こしてきた両社長。大きな節目を前に、この10年で変化したもの、変わらないもの、そして、仙台の未来について語り合いました。
今野/本日はお忙しい中、貴重な機会をいただきありがとうございます。まもなく震災から10年、1つの節目を迎えるタイミングでのお相手は深松さんしかいないと思い、お声がけしました。震災は我々地元企業にとっても大きなターニングポイントでしたが、その前後でどんな変化がありましたか?
深松社長/私が社長になったのが2008年4月、その年の9月にリーマンショックが起きました。あの当時、建設業は大手から中手、地元企業も、みんなリストラしたんです。
でも当社は、土木と建築に加えて、父から譲り受けた不動産賃貸業も行っていたので、「その家賃収入を食い潰すまではリストラしないから安心して働いてくれ」と社員に宣言しました。当然ボーナスは出せませんが、それでも社員みんなに頑張ってもらっていました。そんな時に震災が来たんです。
社長の仕事は会社を継続するのが最大の使命。リーマンショックの時は不動産賃貸業という柱があったから残れました。一本足打法だと、何かあれば全部だめになりますが、複数柱があれば、どれかダメになってもどれかが会社を支えてくれます。
そこで「私も本業に代わる新たな柱を作ろう」と始めたのが太陽光発電でした。
次々に全国で太陽光発電を作り、開発事業としてミャンマーと沖縄に行き、そして今はアクアイグニスの商業施設事業…と、どんどん投資していった結果が今です。様々な業界がコロナウイルスの影響を受けていますが、当社はこれだけ柱があるのでびくともしません。
本業である建設業は、去年の台風の影響で今後5年間は仕事があると見ています。そういう意味では、建設業だけが唯一、コロナ禍で先が読める産業だと感じています。ピンチはチャンスとはまさにその通りだと思いますね。
(左)株式会社深松組/賃貸事業の一例 グレイスハイツ山手町
(右)ユーメディア/創業以来の基盤である印刷業
今野/お父様が展開してきた不動産事業を財産として利活用しながらも、それに甘んじることなく、深松さんの代で、震災をひとつのきっかけとしながら新たな柱を立てられたんですね。
震災当時は、自分のことで必死な人が多かった。それに対して、建設業協会としてのお立場もあったとは思いますが、目の前の行動だけではなくて、先も睨んでやるべきことをやられているのが、流石だなと聞いておりました。
程度は比較するものではないかもしれませんが、命そのものと比べたら、衣食住に直接かかわらない我々の仕事が本当に必要なのか、震災当時に自問自答したんです。ただ、情報は届くべき人に伝わらなければいけません。即時性を重視すればWebですが、無電源で情報伝達できる手法は紙、温もりと一緒に情報を受け取ることができるのは印刷です。
当社でとある大型物件をやらせていただいていて、震災当時も発行してくれと依頼がありました。手に入る紙を全部使って印刷し、情報をお届けしたんですが、市民の皆さんが少しでも安心するための情報を伝える媒体を届けられたことは、非常に良い経験でした。目の前のことで必死でしたが、我々は世の中に必要な会社だと実感できる場面にもなりました。
グループ会社で「ラジオ3」という青葉区のコミュニティFMを運営しているんですが、ラジオを聴く人が減少傾向にある中で、震災当時はラジオが大活躍だったんです。
社員が事務所で寝泊まりしながら、発電機を使って電気を起こして、最前線で放送を続けました。災害時でも「事業を止めない」スタンスを、自分のグループ企業からあらためて学びました。車からガソリンを抜いて発電機を回して、一晩乗り越えたこともありました。
これからは、交流人口の拡大に加えて、移住定住も大きなテーマですが、そうすると地域には多くの課題があるんです。その課題に対してコミュニケーション支援企業としてできることはたくさんあると思っています。それが今掲げているビジョンにも繋がっていて、そのきっかけが震災当時のいろいろな経験だったのかなと思います。
深松社長/緊急時には、いかに多くの方に情報を知らせて生きる希望を与えるかが大事ですよね。すべての世代に伝えるには、やはり紙媒体が有効だと私も思います。
あの震災はたくさんの教訓を与えてくれました。あの時に起きたことをもう一度掘り起こして記録に残し、これから災害が来るであろう地域の方々に伝えることが我々の役目だと私は思います。今野さんの体験も、ぜひ他の地域に伝えてください。
今野/震災からの復旧・復興の視点で見ると、仕事面ではチャンスという捉え方もあると思うのですが、先頭を切って被害の大きな地域に行かなければいけないお立場の中で、人として感じたことはありますか?
深松社長/あの時は、みんながパニックになっていましたが、焦って良い考えが出るわけがない。誰もが初体験なので、次同じことが来たら何をするかを全部決めて、仙台市と建設業協会でいくつも協定を結びました。
震災の時、建物が潰れて亡くなった人は仙台市ではゼロ。津波さえなければ、誰も亡くならなかったんです。私はそれが非常に悲しくて。だけど今は、防潮堤、復興道路の高さが7mなので、東日本大震災と同じ規模の津波だと道路を超えますが、防潮堤を超えて溜まってから道路を超えるので1時間半は稼げます。今は避難タワーも、避難道路もすべてあるので、間違いなくみんな避難できるはずです。
最近は大雨も多いですが、街中のオフィス街が水で溢れることはありません。30~50㎝くらいは水が上がってくると思いますが、それだけ。そう考えると、こんなに災害に強い街はないんですよ。「世界に冠たるスーパー耐震シティ」だと私は言っています。
でも、地震が来れば当然被害はありますし、次にいつ来るかも分かりません。日本は今、あらゆる産業が人手不足です。我々の業界としては、日本の面積は変わらないので、少ない人間でこの面積をカバーしなければならない。
となると、東日本大震災と同じスピードでは絶対直せません。そのために、同時期に震災の被害を受けない浜松の建設業協会とも協定を結びました。そうすることで、燃料も物資も調達でき、いざというときにすぐ動けます。ここまで対策をしている地域は画期的です。
この10年間で、自分の子孫たちに「同じ災害が来たとしても絶対大丈夫」と自信を持って言える体制を作ることができました。新しい時代になればまた、それに対して方程式を変えて残していけばいいと思います。
(左)株式会社深松組/実績:名取川閖上下流工区 堤防災害復旧工事
(右)深松組/実績:石田沢地区防災まちづくり拠点施設他建設工事
私は、南は石垣島から北は釧路まで、これまで全国で205回講演をしています。気付きって、経験した人にしか分からないんですよ。想像しろと言っても、なかなかあの震災は想像できません。それに、日本中・世界中から支援を受けたおかげで今の仙台があります。だから震災以降、「感謝報恩」の4文字が私の座右の銘です。皆さんのご支援に感謝して、恩に報いるために、オファーがあったら必ず行く。それを肝に銘じています。
今野/205回も!すごいですね。「世界に冠たるスーパー耐震シティ」、ぜひ仙台市としても前面に押し出してほしいですね。そして、深松さんの講演を聴いた各地の皆さんは、自分事として今後の防災に向き合ってもらえればと感じました。
深松社長/今の日本の最大のリスクは、関東大震災と南海トラフです。被害額は100兆と200兆とも言われていますが、今の日本の力だけでは対処できません。だから私はミャンマーに行って「日本の技術を教えるから、いざというときには日本を助けてほしい」と言っています。台湾に義援金を持って行った時も「日本人は3.11の恩義を忘れていない」と新聞に載ったんです。恩の送り返し合戦ですよね。
深松社長/これからは、東京と大阪からどれだけ人を連れてこれるかが重要です。東京の企業へのアンケート調査で「移転するとしたら、札仙広福(札幌・仙台・広島・福岡)のうちどの都市に移りたいか」を聞いたら、8割の企業が仙台と回答したそうです。
仙台は東京に近いという利点があります、高速道路に、空港、港、何といっても燃料基地があります。関東大震災が来た時には、仙台から燃料を持っていくしかないんです。そう考えると仙台は東京のバックアップシティになり得ます。
(左)仙台空港(写真提供:宮城県観光課)(右) 仙台駅(写真提供:宮城県観光課)
一方で、仙台が本社の企業は、外に支店がある企業が少ないんです。仙台には仙台を離れたことがない人が多いんですよ。でも、仙台の良さは離れてみないと分かりません。
私は20代の皆さんには「まずはアジアに行ってこい」と言っているんです。勢いが半端じゃないし、みんな上を向いているから。
20代に「10年後・20年後の日本が良くなると思うか」という質問をすると、8割が「悪くなる」と答えるんです。今の日本を作ってくれたのは、20代にとって曾祖父母の世代。一回焼け野原になったところから、こんなに素晴らしい街を作ってくれた先人の方々に対して、自分の子どもたちのために良い未来を残したいと思わないの?と。私は自分の子どもたちにもっと良い日本を残したいから、その道筋を作るために今働いている。だからもっと上を見なさい、と伝えています。みんな下を向いていると、良いものが全部下に落ちて、その取り合いになります。でも、上を向いていたら真っ先に取れます。私の事業も全部そうです。二番煎じじゃ意味がない。
いろいろなところに行っていろいろな人と出会って、いろいろな会話をするのが私の原動力ですね。そこにヒントがいっぱいありますから。それに、50代って自分が言っていることを現実にできるんです。仕事をしていて、今すごく楽しいですよ。
今野/新しい人との出会いという意味では、採用活動はどうですか?受けに来る学生や中途の方たちの印象は震災の前後で変わりましたか?
深松社長/震災前はそもそも雇うことができなかったんです。おそらくそれはどこの建設業界も同じで、採りたくても採れなかった状況から、今は欲しくても来ない状況に変わっています。当社は去年から大卒の採用に本腰を入れまして、来春には10人ほど入社することになりました。やはり私が直接行って話した方が想いは伝わりますね。
その方向性で今年も採用活動をしようと思っています。
今、いろいろな規模の会社がありますが、大きな会社だけでは仙台を守れません。それぞれの規模の会社が、それぞれの役割を果たしてくれているから仙台を守れるんです。建設業協会の会社を周ると「担い手がいない」という声が聞こえてきます。そういう状況の会社は、仙台市郊外に多いんですが、災害が起きやすいのも郊外なんです。
縁の下の力持ち的な工事を担う方々がいなくなると大変です。それを守るのも自分の役割だと思っています。
今野/規模感は違いますが、業界の構造は印刷関連業と近いのかもしれませんね。大中小とそれぞれの規模の会社があって、小さな会社がきめ細かいサービスをしたり、機械が小さくても、ロットが少ないものが得意だったりします。小さな会社は特に、後継者不足や設備投資に苦労していて、これから数がかなり減るんじゃないかと言われています。そんな中で、組合として何ができるか模索しているんですが、やはり仕事を作ってくれと言われますね。
深松社長/そうでしょう。それは御社で仕事を作って、技術を持っている人たちを残さなきゃいけません。技術者は一朝一夕にできませんから。
株式会社ユーメディア/地域の活性化を技術とアイデアで創出
深松社長/「新しい柱」ということで沖縄とミャンマーにも進出していますが、「郷に入っては郷に従え」で、地元の方々に認めてもらえないと商売はできません。
沖縄は観光で行く分には良いんですが、仕事をしようと思うと、非常に閉鎖的な場所です。仲良くなるために、向こうの慣習にどっぷりつかりました。宮古島にユタという祈祷師がいるんですが、建設前にご祈祷してもらったんです。それを地元の方や市長に話したら、「俺たちは大事な時には必ずユタに相談するんだ」と。島の文化に染まったことが、信頼につながりました。沖縄の事業は全部島の業者に発注しているんですが「あなたは島の人たちに仕事をくれるから応援する」と言ってもらったこともありました。
コロナ禍の今、島外からの来訪は敬遠されますが、私はOKと言われています(笑)。仲間にしていただいているんです。
今野/宮古島での建設のお仕事は、てっきり御社の売り上げになっていると思っていました。今お話を聞いてすごくびっくりしました。印刷なら、沖縄の仕事でも「ユーメディアの印刷機を回す」という考えをシナジーのように捉えてしまっていたんですが、そうではないんですね。
深松社長/とにかく「地元の方々に仕事を」という想いです。ミャンマーも、現地の建設業の方に「日本の技術を教えるから、ミャンマーで一番になってほしい」と伝えたら、最初こう返されたんです。「日本の技術が良いのは分かるが、ミャンマーのお客様はそこまで求めていない」と。でも、それでは差別化にならないと私はずっと言っていたんです。
当社が手がけるマンションは日本式なので、職員を集めて勉強会を開いた上で建設しました。そして、現地のデベロッパーは別の物件でもその技術を使って建てたんです。そうしたら評判は上がるわ、家賃は高く取れるわ、住民にとっても良い環境で、「良いものは良い」と分かったんです。
すると今度は、社員が勝手に「もっと日本の製品を使いたいから紹介してほしい」「もっと指導してほしい」と、善の循環が始まって、現地の社長が何も言わなくても社員が勝手に品質向上のために動き出したんです。現地の社長からも「深松さんの言っていることが分かりました。見違えるように会社が良くなりました。」と御礼を言われました。国も文化も違うと、人の気持ちを変えるのは非常に大変ですが、伝わって良かったです。
ひとりだけ、日本だけでは、もうやっていけません。日本品質や日本のサービスへのニーズはアジアにたくさんあります。それを伝えながら、何かあったときに助けてもらえる関係づくりのために動いています。その想いがあるから、私は全然苦じゃないんですよ。
株式会社深松組/ミャンマーサービスアパートメント事業
今野/感謝報恩や、子孫代々のために、日本・国全体のためにという想いが根底にあると感じました。そこに少し「沖縄が好きだから」というような感情も絡ませて、ストレスを上手に緩和させながらビジネス展開するという考え方なんですね。
先程お話したとおり、震災後はうちの会社が本当に必要なのかを根本から突き詰めて考えました。お客様の仕事も止まっていたので、社内で打合せする時間も多く確保でき、みんなで考えた結果、事業を通じて地域を活性化することが我々の使命だと答えを出しました。それが今のビジョンにも繋がっています。
ただ座っていても世の中は良くならない、誰かが動ける範囲で少し背伸びしながらも動くしかありません。それを誰かに任せるのではなく、自分たちがやろうという想いが私の原動力ですね。実際動いてみると、新しいムーブメントが生まれる手応えを感じます。それが実感として得られると、次も頑張ろうという気持ちになり、地域活性化にも繋がると思っています。
今野/地域の活性化ということで、深松さんにお聞きしたかったことがあるんです。
沖縄やミャンマー、ご出身地である北陸・富山と、事業領域を広げつつ、海外も含めて活動エリアも拡大していますが、ホームページを拝見すると「地域」という言葉を大事にされていますよね。
「地域のために」という想いは私も同じなんです。今まで十把一絡げで「大都市に対する地方」とひとくくりにされてきましたが、やはり東北には東北の良さがあります。首都圏との適度な距離感や、食の宝庫であること、豊かな自然、真面目な県民性…。今回のコロナ禍の中で、地域ごとに特長があり、それを磨いていかなければならないと再認識しました。そして、当社が考える「地域」とは「仙台・宮城・東北」であり、この「地域」へ事業を通じて貢献するんだ、と見定めるきっかけになりました。
深松さんは仙台ももちろん大事にされているし、沖縄でも地元の事業者に対して仕事をどんどん出していますよね。「地域」についてはどのように捉えてらっしゃるんですか?
深松社長/私が生まれた富山県朝日町の笹川地区は、トンネルを越えたら行き止まりの112世帯の集落なんです。小学1年生のときに仙台に来たので、圧倒的に仙台歴が長いんですが、我が家の本家は富山であることは変わりません。
笹川地区の水道は、112世帯がお金を出し合って運営しているもので、前に作ったものは相当古く、毎年パンクしている状況でした。水が出なくなれば、この土地に住めなくなる。
でも、水道の入れ替えをするのに3億円かかるんです。この額は限界集落に住む高齢者の皆さんには払えません。何とかしなきゃいけないと思っていたら、その地区に流れる「笹川」で発電する権利が空いていたんです。ここに発電所を作って、同時に水道の入れ替えもしようと提案し、自治体や地元協力企業の協力も得て実現させました。万が一、会社が潰れたときのために発電所・水道全体を信託にして、20年間安全安心で水道が使える環境にしています。この仕組みは全国で初。SDGsの最たるものだと思っています。今の時代はESG投資です。環境だけでなく地域を守るという要素も入っていますよね。
それ以前に、私にとっては自分のルーツですから。地域の方々も喜んでくれていて、行けばたくさん声をかけられます。仕事をしていてあんなに喜ばれることはありませんし、ましてや自分の故郷を守れるなんて。たまたま地域の「恵みの川」が、本当に恵みの川だったねとみんなで話しているところです。嬉しいですよね。こんな恩返しができることなんてそうそうないですよ。
今野/ご自身が縁あったところが、深松さんにとっての「地域」なんですね。そして、自分の利のためではなくて、その地域のために動かれている。今まで培ってきたノウハウを活かして、超えたことのない壁であれば、ぶち当たって挑戦していく姿勢が「地域のために」という言葉に表れていると感じました。
深松社長/地域の方々と一緒に発展していく。私の中には常にその考えがあります。
世のため・人のためとよく言いますが、そういうことは時間がかかっても絶対成功します。これが自分のためだったら成功しません。
見透かされて、見捨てられておしまいです。それがここにきて自分でもよく分かってきました。当社の経営理念は、「信用を重んじ建設事業を通じ地域社会の繁栄に奉仕する」なんですが、まさしくこれですよね。知らず知らずのうちに創業以来の経営理念にしたがって動いていたんです。
今野/実際に、宮古島も朝日町も、その地域にとって必要なことをやってらっしゃいますからね。
当社の創業事業である印刷業は、地域密着型・地場産業と言われているんです。街のお困りごとを何でもご相談いただいて、形にしてお届けし、それを使って商売していただく仕事なので、拠点のある場所から、影響が届く範囲が遠心的に広がっていくイメージなんです。当社は仙台を拠点としているので、これまで影響力を及ぼせる範囲は宮城県内まででしたが、共通の課題も多いものですから、今はそれを東北に拡げていこうとしている段階です。
今野/深松さんの新しい動きは、海外展開も含めてエリアの拡大という印象が強かったんですが、仙台市内でアクアイグニスを建設されるということで、そのきっかけはなんだったんですか?
深松社長/震災当日、建設予定地の藤塚で仕事をしていたんですよ。それも堤防の、海の目の前で。あの日は当社の土木部長と安全部長が社内検査のために現場に行っていました。現場を離れようと思った瞬間にグラッと揺れて、みるみる亀裂が入り、「これはまずい」と逃げました。逃げるとき、ちょうど藤塚の集落の真ん中を通ったら、地元の高齢者の皆さんが井戸端会議をしていて、「いやー、すごかったね」なんて話しているんです。
外では大津波警報が流れていて「津波が来るから逃げなきゃだめだ!」と言ったんですが、「仙台に津波が来るわけがない」と皆さん逃げなかったんです。結果、たくさんの方が亡くなりました。それがもう強烈な記憶で…。その後、藤塚のがれき撤去もかさ上げ道路整備も当社で行いました。だから、この場所を何とかしたいという想いはずっとあったんです。
アクアイグニスの本社は三重にあるんですが、アクアイグニスの立花社長とはもともと友達でした。
震災当時、会議室でおにぎりを握り、社員にはそれを持って現場に行ってもらっていたんですが、3日で持ち寄ってきた米もなくなり、渡すものがなくなってしまったんです。社員からは「社長、腹が減ったら戦はできません」と言われて、そのとおりだよな…と困り果てていました。
でも、震災から4日目、福島が原発で大変な状況になっているときに、立花社長が食料と燃料を持って来てくれたんです。彼には一生頭が上がりません。
三重のアクアイグニスには年間200万人が来ていて、今や地方創生の要です。だから、復興が終わりかけている仙台にも来てくれと頼みました。立花社長に講演に来てもらい、その資料を持って自治体のところに行き、これだけの来場者数が見込める施設が来てくれる、どこか良い場所はないかと相談しました。計画を作って提出し、去年の3月に許可をいただいてから1年かけて開発地許可を取り、今年の4月から造成工事をして、先日着工。2022年春にオープン予定です。
立花社長からは、「プロデュース契約としてアクアイグニスの名前とレシピを送るので、運営は地元でやってくれ」と言われたんです。だから運営はすべて地元企業で行います。アクアイグニス仙台の運営会社は「仙台reborn」という名前にしました。
私はカラオケが大好きなんですが、震災後、行きつけのお店から「今日から開ける」と連絡があり、すぐに向かいました。そのお店のママは山元町出身で、実家も、親が経営するお店も流され「独立しようと思うのだけど、店の名前は何が良いか」と聞かれたとき、私は即答で「リボーン」と答えました。
「私は絶対に仙台を元通りにするから」と。そんな訳で、そのお店の名前は「リボーン」になりました。それが「仙台reborn」にも繋がっています。
いつまでも後ろを向いてはいられませんから、未来に向けて、藤塚を再生して賑わいを取り戻したいと思っています。
今野/すごく共感できます。何事も、まずはできる人が少し一歩前に出るしかない。その姿を見て、自分も頑張ってみよう、一歩進んでみようと、輪が少しずつ大きくなっていくのが理想ですよね。
大きな被害があったエリアに目に見える施設ができるというのは非常に大きな動きだと思っています。
特に、仙台の東部エリアはまさに「再生」のシンボリックな存在であるべきですし、開発用地という視点でも、荒井や荒浜といった沿岸部を含めた東部エリアの開発が次の一手だと思っているので、とても注目しています。
深松社長/ただ、運営は当社でも経験がないものですから、これからそれを担える人材も採用して、みんなで作り上げていこうと思っています。
今、東北学院大学の学生にアクアイグニスでのイベントを考えてもらっているんです。長く愛される施設にするためには、今の20代に使ってもらう必要がありますから。みんなに愛される施設になってほしいですね。
今野/我々も六丁の目に工場がありまして、当社にとって大事な印刷をこれからも守り続けるために一昨年新しく移設をしました。そして、旧工場の跡地をクリエイティブに関わる人間たちが集いながら、新しい価値を生み出す「INKS」という施設に生まれ変わらせようとしています。
地域活性化のためには人が集う場所が必要ですが、我々は本業に近い領域で集客施設を作るつもりです。一般の方々が多く集う施設と連携しながら、我々の広報宣伝のノウハウや、観光開発事業で造成した新たなツーリズムと絡ませて、東部エリアの活性化に寄与できればと思っています。
深松社長/そうですね。例えば、アクアイグニスには温泉があるんですが、名取のサイクルセンターと鳥の海にも温泉がありますよね。
でも、こちらには宿泊施設がないので、タッグを組む話が出ています。温泉を巡るスタンプラリーを作って、水族館や松島離宮も含めて回遊する仕組みを作りたいです。単体で動いても限度がありますし、地域のみんなにメリットがある仕組みを作った方が良いですよね。
今野/1点だけが盛り上がればいいのではなく、お金が落ちる仕組みを作りながら、点と点をつないで面にするという考えは、今まさに当社も考えているところです。
例えば今、定禅寺通り活性化検討委員会に関わらせていただいているんですが、地元の人が頑張っている定禅寺・国分町エリアに、仙台駅から日常的に人が流れないことが課題になっているんです。定禅寺通りの価値を高めながら、人を動かす取り組みへの挑戦を始めています。
そのエリアをもう少し広げて、仙台駅や仙台空港など、交通のハブになるところから沿岸地域を周遊する動きに、INKSも含めて、人が仙台市内を動いていく仕組みを作っていきたいですね。
震災の記憶は伝えていきつつ、アクアイグニスはそこに留まらずに前に進むための施設だということがよく分かったので、期待値がさらに高まりました。これからもぜひお話を聞かせていただきたいです。本日はありがとうございました。
深松社長/こちらこそ、ありがとうございました。どうすれば仙台を盛り上げていけるか、これからも地域のみんなで考えていきましょう!